毘沙門グループ

毘沙門グループ

「お客様の立場に立ち、価値ある商品とサービスをご提供」

と目標を掲げ、味の進化を追求し続ける毘沙門グループ。
オーナー甲山貴明(こうやま たかあき)は1988年に渡米してから常に思う事がある。「こんな自分でも、何かの影響力を持ち、社会へ貢献出来るのではないか?」多くの方に支えられての今がある事を「社会へ貢献する」事で報恩を重ねたいと願う。社員と顔を合わせ、話す機会を設け、一人一人の良い個性を磨きたいと従業員教育にも力を注ぐ。

甲山 貴明

毘沙門グループ CEO

オーナー甲山は1963年、東京八王子市に生まれる。某都立高校で学び、あらゆる仕事に従事。そして19歳で料亭へ修業の道がつく。不屈の精神とまじめな人格は修業中も思う存分発揮され、料亭の系列店である割烹店の店長に抜擢されたのは21歳であった。この時の全てが今に続く原点となる。

渡米

1988年、本店の料亭が繁忙を極め、店舗を一本化するため割烹料理店を閉店する事となった。これ迄には考えもしなかった「海外へ行ってみたい。」と言う思いが頭を過る。25歳の甲山は海外へ行く事を決意し、荷物ひとつで日本を飛び出した。目的地はアメリカLA.
元々出身地の近くに米軍基地があり、アメリカの存在を身近に感じていた。初めての海外がアメリカである事は至極自然な事であった。

住み込み

アメリカLAへ到着した翌日、知り合いからコビナ市にある日本食レストランでの職を紹介される。後に甲山が魂を込めた1号店となるレストランだ。がこの時は手持ち金400ドル、泊まるところも無い青年。オーナー宅への住み込み付きで採用される。初任給を手にする迄の一ヶ月間の住み込みを通し、今も甲山の心に留まる思い“周囲へ向ける温い心と感謝”

独立

住み込みから始まったレストランの職でも、甲山の人格は遺憾無く発揮され、翌年には店長に抜擢される。1993年、甲山30歳。店長として働いていたレストランオーナーから店を引き継ぐ事となった。長く飲食業に携わっていたがオーナー業は初めての事であった。毘沙門グループの歴史の始まりである寿司レストランをオープン。一心不乱の日々であった。店名は「毘沙門」

焼失・再開

順風満帆であった1997年、甲山の魂とでも言うべき1号店の“毘沙門”を事故により焼失。再開の目処が全く立たない状況の中、再起不能と囁かれ忘れ去られて行く“毘沙門”を「ここで止めてなるものか。」と1年かけ不死鳥の如く蘇らせた。毘沙門2Fにカラオケバーを同時に始める。再オープンに戻って来てくれた元従業員、再オープンの日、目にした光景は押し寄せるお客様の姿であった。「応援し続け、お待ち下さっていた!」この時の感動が更に甲山を輝かせて行くことになる。

大黒家本店:LA#1

ラーメンスポットとして常に上位を維持している大繁盛店がリトル東京で産声を上げたのは2002年。この頃には周囲から頼りにされる逸材となっていた甲山へ「後は頼む」と店舗の鍵だけを渡し失踪した人物がいた。店舗は引き継ぐ事になるが、数ヶ月分の家賃の肩代わりもあり、改装に充てる費用はなかった。この時、甲山の人格の中にあった「柔軟さ」が発揮される事になる。築100年以上の店舗の雰囲気を生かし、昔の雰囲気の中で昔ながらのラーメン文化を知ってもらおう。発想の転換,柔軟さのなせる業であった。当時、アメリカに暮らす人々のラーメンに対する知識は十数セントで販売されていたカップにお湯を注ぐラーメンであった。今や押すに押されぬ繁盛店の陰には、寝る間も惜しみ、1年間に及ぶ店舗に住み込みながらのスープ作り、深夜4時迄営業しお客様に認めて頂く努力があった。更にソーシャルメディアの流行が追い風となり、評判は評判を呼び瞬く間に広がった。甲山は言う、「まだ完成とは言えません。」と味の進化を模索し続けている。

多聞、王者

2007年5月、リトル東京の都ホテル2Fに甲山の本領を発揮する店舗「多聞」をオープン。寿司と割烹の店である。同時期多聞と隣接するラウンジ「王者」をオープンさせる。2Fと言う事もあり、都会の喧噪が嘘のような寛ぎの空間を実現。リトル東京内のホテルはオープン当初から日系団体の催しや憩いの場として利用されて来た、日系社会に入るきっかけとなった点から見れば言わばフラッグシップ的な店舗とも言える。「多聞」は多聞天から命名した店名である。多聞天は毘沙門天の別名である。七福神の中で唯一の武将の姿である。渡米から19年、走り続けて来た甲山自身が立ち止まり振り返る事が出来る、隠れ家的な店舗を必要と感じていたのかも知れない。

大黒家モントレーパーク店

大黒家2号店としてモントレーパーク店がオープンしたのは、大黒家本店オープンから7年後、2009年2月の事。7年の期間を経て満を持してのオープンであった。このアジア系地域で、果たして多くの方から指示を得た。その人気は根強く、本店と同様に店先はお客様で溢れている。
大黒家ラーメンを愛して止まないお客様に支えられて、大黒家開店当初の甲山の想い「昔の雰囲気をそのままに、昔ながらのラーメン文化を知って貰いたい。」を受け継ぐ従業員はその目標に向かって驀進中だ。

味道

次のカテゴリーは日本独自に発展をした日本の洋食屋だった。50歳の甲山は2013年3月、カレーと洋食屋の品々を提供する「味道」をオープン。カレーに挑戦したい想いがあった。「カレー」・・・味を追求すればする程、それは深まり、広がっていく、試行錯誤が続いた。やっと見つけた味が間違っていなかったと思える瞬間は直に来た。カレーを食すお客様の笑顔に会い、受け入れていただけた喜びを感じた。どれも美味しいと評判の洋食屋のメニューにも引けを取らない看板メニューとなった。

暖簾分け

大黒家本店勤務の従業員に暖簾分けを許した。彼はリトル大阪と言われるソーテル市に2014年に1号店「大黒家ソーテル店」、2号店は2016年、ハリウッドに「大黒家サンセット店」をオープン。当初、暖簾分けには不安があった。甲山の元で働く言わば甲山の子供が、自らの歩み来た険しく厳しい道を歩む事にならないか?と心配が先に立った。しかし「甲山塾」から巣立って行く事は喜びでもあった。荒波へ漕ぎ出したら「筋を通す事」が成功するかどうかの鍵だと教え、独立後も温かな親の目線で見守り続ける。そして親の愛に応えようと努力を重ねる元塾生の店舗は、やはり多くのお客様に支えられている。

大黒家エルモンテ店

大黒家3号店。「大黒家エルモンテ店」のオープンは奇しくも大黒家モントレーパーク店オープンから7年後、2016年6月。ゆったりとした客席は大黒家メニューをゆったりと味わう事が出来る。この店舗も又、甲山の想いを目標に邁進している。広い店舗はセントラルキッチンを兼ね備え、大黒家全店で消費される大黒家の命である“エキス”を繋げ続けている。7年後には4店舗目に会えるだろうか。期待を持たずにはいられない。

地元に向ける想い

2018年5月にリトル東京に醤油ラーメンの店をオープンさせた。八王子で大人気の醤油ラーメンの魅力を紹介したいとの熱い心で出店。店舗名「八王子クラフトラーメン」。ロサンゼルスのラーメン店では大黒家に見られる豚骨系がメインであった。鶏ガラのみで作られたスッキリとした味わい深いスープと刻みタマネギのハーモニー。塩ラーメンと共に好評を博している。これも地元愛の現れである。

味道 Sawtell店

味道Rowland Heights店オープンから7年、こよなく愛される店となった味道は、2020年8月待望の味道2号店をソーテルにオープンさせた。
コロナ禍の真っ只中。「今、この時だからこそ!」と立ち上がった甲山であった。
その推進力と牽引力は正にフロンティアスピリッツと言えるのではないだろうか。
何があろうと負けない、屈しない嘗ての開拓者が困難に打ち勝ち、アメリカ西部に土地を開拓した精神。困難に立ち向かう勇気、甲山もそれを持ち合わせていた。

洋食の始まりは約150年前、開国後に日本に入って来た西洋料理。
時をかけ米飯と食す西洋料理へと独自に進化を遂げた。

洋食へ姿をかえた西洋料理の数々を、この地で堪能できる本格的日本の洋食屋が、味道である。

Sawtell店はRowland Heights店と趣きを異にしている。
家族の絆、人と人との絆、平和への祈りが高まる今だからこそ、一人でも多くのお客様が、一時でも幸せな時間を過ごして頂きたいと言う甲山の思いは、優しく温かな、空間と接客で「お帰りなさい」の似合うファミリーレストラン店を作り上げた。
洋食&ファミリーレストランは手作りのデザートも充実している
7年毎に新店舗をオープンしている大黒家の如く、味道も又、大繁盛店へ成長への道を歩み始めた。

「仁・義・礼・智・信」

「仁・義・礼・智・信」

優しい心、強い心、感謝の心、正しい心、正直な心。人としてどう生きるかを常に念い、今日迄歩み来た。その道は決して平坦ではなかった。無駄な事は何一つ無いと言い聞かせ乗り越えて来た。全てはお客様の為に。七福神は多国籍の神様の集まりと言われる。甲山は多国籍の人種が暮らすアメリカの地で多国籍の神々に守られ歩み来たのではなかったか。周囲が彼を動かす、留まるところを知らぬ快進撃が続くであろう。